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今の日本のホームレス。『地上の人々―三人のホームレス 』(パロル舎刊)を読む

パロル舎刊の『地上の人々―三人のホームレス』を読む。

図書新聞の井手さんが一人称で、水道橋界隈の三人のホームレスをルポした作品。私小説のようでもある。

3人は、若い時分から身体を資本に働き、怪我や老年、勤め先の倒産などをきっかけにホームレスに行き着く。
「昔は、50歳くらいまで働けたら良かった。それが寿命が伸びて、60代までは頑張ろうと思っていたら、今や80代まで生きれるようになってしまった」というようなセリフにあるように、「人間、働けなくなってからの人生が長い」というのを考えさせられます。
一方で、なんだかんだたくましく生きる(ように見えただけかもしれませんが)彼らの姿に、人間は意外にも強いのか?とも……。

不況や格差なんて言われている世の中では、自分の将来に不安を感じる人も少なくないと思いますが、そういう意味では、人間なんだかんだで生きていけるという点においてはある種の希望を得られるかもしれません。

今の日本の陰の一面――「今の日本のホームレス」をそれ以上でもそれ以下でもなく、等身大にかいま見ることができる作品です。
パロル舎というと、絵本や芸術系に強い出版社というイメージですが、こういう味のあるテイストのドキュメンタリーを出すんですね。

地上の人々―三人のホームレス

『<弱さ>のちから』(著:鷲田清一)

鷲田清一の「弱さの力」を読みました。

ケアをテーマに、様々な場面にいる13人にインタビューし、著者の視点を交えながら記録した本でした。

臨床哲学という分野の(開拓した?)先生ということで、まさに、臨床の場(僕たちにとっては、日常生活の空間と言うべきかも)で起こる様々な現象——それも僕たちがあまり直視しようとしない現実——。それと正面から向き合っている人たちに話を聞いています。

例えば、住職、いじめ問題に取り組む先生、家族のあり方を模索する建築家、性感マッサージ嬢、24時間介護を必要とする元教師、など。

このインタビューを通して見えてくるのは、自分たちは実はとても脆い存在であるということ、弱さを抱えているということ。
さらにいえば、その弱さを、直視しないで過ごしていること。

例えば、24時間介護を必要とする元教師のエピソードですが、介護を必要とするその人のそばには、毎日誰かしらがいるそうです。時給650円程度で誰かが誰かを連れてきて、誰かしらが居る。日々の介護は介護をする側の人間にしても大変なことであり、時に自分にその役割が任せられて居ることに腹正しくなることもあるかもしれません。でも、この介護に関わる人が、その人によって救われていると感じる場面があるのです。
介護者が自分の日常の中では、笑ってごまかしている悩みや苦しみを、その人になら打ち明けることができるそうです。

「弱さは強さの欠如ではない」と著者は書きます。
日常を生きる我々は強くあることを推奨されるのか、自分の弱さに目を向けることを避けようとします。(まぁ、自分の弱さを声高に叫ぶ人もいるわけですが……。)
だから、相手のむき出しの弱さに触れた時、最初は戸惑うのです。それはきっと、直視することを避けて来た自分の弱さを直面することでもあるからだと思うのです。でも、その弱さが、自分の強張った身体をほぐし、自分にもある弱さを引き出してくれるのです。


日常を懸命に生きている私たちには、自分の弱さに目を向けられるような機会が必要です。
でも、自分を振り返ると、大学を出て社会に出て、仕事をして行く中で、自分の感情を無味にしてきた気がします。それは、自分をすり減らさないようにしてくれる一方で、無感動にもした気がします。
本の帯にも書かれてある「『そこに居てくれること』で、救われるのはだれか?」……。それは多分僕で、それは多分今を生きる私たち一人ひとりなのだと思います。

自分の弱さにも目を向けて、時にはそれを受け入れること……。それを思わせてくれる本でした。肩ひじを張って、張りつめて日常と向かっている人、でもその生活の一抹の不安を感じた時は読んでみると良いと思います。


……前職では、看護の方を取材することが多かったのですが、看護は、相手の弱さを受け入れ、そして、そこに居てくれる尊い仕事なのだな、と改めて感じました。


<弱さ>のちから
<弱さ>のちから
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鷲田 清一
講談社
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劇団与太組 第2回公演 『リ・サイクル』

劇団与太組 第2回公演 『リ・サイクル』

演出家・脚本家 与太郎さんの舞台のゲネプロを撮影させていただき、初日舞台を観賞させていただきました。

日常のくすりと笑えるワンシーンを(おそらく)モットーにしている与太郎さんらしい舞台でした。初日の舞台は、2回目の観賞(ゲネプロで撮影しているので・・・)だったのですが、1回目より2回目が笑いました。ゲネプロより出来が良かった!!ということでは(おそらく)なく、2回目には登場人物たちと共有できる言葉や背景が広がったからだと思います。

伏線もまたなんとも綿密にちりばめられていて、「この人はこういう背景があるから、この時にこんな発言をしているんだな!」という神の視点が自分に宿り、より一層愛情がわくのです。見る回数を重ねる度に、舞台の空間と自分の日常が重なって行くと表現したら良いかもしれません。

与太郎さん、相変わらずの筆力です。

劇団与太組 第2回公演 『リ・サイクル』

快快(ファイファイ)の公演を見てきました

今日、「快快(ファイファイ)」という劇団の演劇を、知り合いの誘いで行ってきました。メンバーに友達がいるということでした。

演目は「shibahama」というもともとある落語の話をベースに「自由気ままにアレンジした」もの。劇団員は概ね僕と同世代らしいく、海外公演なんかも行っているらしく、演劇のことはよく知らないですが、新進気鋭という分野に入るのかと思います。

感想としては、「演劇」というより「イベント」に行ったという感じで、さらに言えば、楽しかったというより、「この人たち楽しんでいるな〜」と・・・。

今回の演目を見ていて「大人の学芸会」に行ってきたという言葉が自分の中でしっくり来ています。


自分たちがやりたいことを好き勝手にやっていて、それでいて「俺達がこんなに好きでやっているんだ。お前達も好きだろう?」というような厚かましさのようなものを感じ、そして、その心にトゲ刺すような感じが、ある種の疎外感と逆接的な心地良さを持たせてくれているようにも思えて、「う〜ん」と唸りつつも、次の公演にはまた足を運んでみたいと思わせるような、麻薬的な危険性があります。

その右脳的で自由な演出は、社会というフレームの中で生きている自分に気づかせてくれていて、「服をきて生活している」ことはあくまで一つの価値観であり、しかし、その価値観という枠から抜け出せない「自分」を突きつけられている様な、戸惑いも感じます。
とすると、日常からの逃避を色濃く提示するこの劇団のカラーは、傍観者に少し背徳的な後ろめたさと心地良さを与えてくれもします。

ただ、惜しむらくは、この「踊り狂う」ようなイベントには、最終的には参加できなければ到達できないカタルシスがあるはずであり、傍観者としてしか存在できないでいる自分にとってはやはり、羨望の眼差しで「大人の学芸会」を見に来ているに留まっている口惜しさがあるようにも思えるのです。

とはいえ、日常の生活から抜け出すことなんてもちろんできないことは分かっているので
、非日常空間を作り出してくれるぶっとんだこの人たちの公演を見に行くということは、まぁ少なくとももう一度くらい足は運ぶと思います。

常連になるか否かは、とりあえず次見て考えます。

確定申告と経済の分かりやすい本を読んでみる・・・

仕事しないと・・・と思いつつ、土曜日ということでつい本を読んでしまいました。。。現実逃避というやつですね。そういうことありません?


カメラマンとしての仕事は全て会社からの請求として出しているので、そんなに関係があるという意識はなかったのですが、確定申告等について全く知識がどうかなと思い、下記本を読みました。

フリーランスを代表して 申告と節税について教わってきました。
きたみ りゅうじ
日本実業出版社
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おすすめ度の平均: 4.5
3 おもしろかったけど
4 フリーランスでなくても参考になる
4 税金払いたくない!って思ったときに
5 これは、わかりやすい。
5 この本は役にたたない(笑)

テクニカルな本ではなく、あくまで「どうして確定申告をせなあかんの?」「どうしてこういう形式になっているの?」「白色と青色ってどう違って、どっちがいいの?」なんて割とファンダメンタルな疑問に、またに「フリーランスを代表して聞いてきて」くれている印象の本です。
これを読むと、主体が「個人」なだけで、あくまで「法人」と似た感じで「売り上げ-経費=所得(利益かな?)」と同じ構造として扱われているということが理解できました。まさに「あ〜そういうことなんですね」と「聞かぬは一生の恥」的な気づきがありました。

例えば、サラリーマンの「給与控除」などは「経費」の代わりとして、結構「手厚く」保護されていて、「所得」って給料額ではなくて、「給料」からもろもろの「控除(=経費?)」を引いた額なのだそうです。。。そう理解できると売り上げの伸びてきたフリーランスがどうして法人化するのかなんてことも自然と見えてきます。(文中に分かりやすく説明ありますけどね)。
別の本でサラリーマンの結構な高収入な人が所得0扱いで税金がかかっていないという下りがあったのですが(下記)、基礎控除で65万円、扶養で38万円×人数なんだそうな・・・(数字は記憶ですが・・・)。

税金の仕組みって知らないと損するんだね。。。


2時間くらいでさくっと読めるし、なーんも分からんという人は本代の1400円とかすぐに回収できるのではないでしょうか。


ところで、去年から今年は不況の関係で「会社外のアルバイトを認める」というところが増えていると思うから、そういう人向けにも案内したらいいのに。(・・・ってそれは違う本でやるべきか)
ネットで調べてみると「バイトをしていることが会社にばれないための確定申告の仕方」みたいなのばかりですね。(会社とは別にアルバイト分の確定申告をして、住民税の支払いを会社天引きではなく、自分自身でやるという方法みたいです)。


で、実は併せて読んだ本が下記です。
2000年収録とかの本なので制度的に変わっているだろう部分はあるのですが、経済音痴の自分なんかにはもってこいの本でした。
何が良いかって、身近なたとえから経済の話に結びつけてくれるので理解しやすいということにつきます。

経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)
佐藤 雅彦 竹中 平蔵
日本経済新聞社
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おすすめ度の平均: 4.5
5 竹中氏に偏見を持つことなく読むべし
4 竹中氏の説明能力&佐藤氏の本質を掴む能力が素晴らしい
5 QA方式でとても読みやすい本
5 わかりやすい、かわいい♪
5 頭の良い人がする会話だから、分かりやすい

で、本の中の下りにもあったのですが(どっちかは忘れました。多分、経済の方。)、サラリーマンは給料から税金が自動的に引き落としになっているので、税金に対する意識が低いというものでした。。。
確定申告して納めてたらそりゃ自分のお金がどう使われているかって気になりますもんね。

そういえば、昨年末に高校のOB/OG会に出たときに、愛媛から人が来ていて(地方自治体の人だったのか?)「ふるさと納税」の案内をしてくれたのですが、説明が的を射ないというか「何これ?よ〜わからん」という雰囲気が流れていたのですが、最近の本を読んで気がついたのは、この納税方式って実は納税者が自分で税金(の一部)を納める場所を選べるということが結構大事なのではないかと・・・。
もちろんその税金は地方の財源になるので、「自分には還元されん」や「ふるさと定義が曖昧」なんて意見もあるそうですが、面白い試みだし、愛媛がベースの人が多いうちのOB/OG会でちゃんと説明できたらやってくれた人も多かったろうに。。。もったいない。と、今更気がつきました。

世の中に疎い自分をどうかと思いつつ。

【Book Review】『文字講座』

ほんの数ヶ月前までフォントの違いに対して、無頓着でした。それが、今、なぜか「文字」に対して静かなるマイブームが起きています。

というのも今、簡単な文字組版をすることがあるのですが、その際、いつも文字周りでうんうん唸ることが多く、模索し、迷走します。
僕は何かをやるときに何かしらの基準軸を設けて、それを振りながら仮説立てし、実行して、反省、修正を加えるというプロセスを経るのが好ましいと思っているのですが、いかんせんフォントに関しては全く持ってどうしようもない状態が続いて来ました。


で、件の本。
そうそうたるアートディレクターのリレー講義を本にしたものみたいで、制作現場からの生の声はもちろん、実際にフォントを作る立場の人たちからの声もとても参考になります。

最終的に、自分なりにこの本を読んで納得した結論は、「フォントはあくまで素材の一つである」。結局、表現したいコンセプトや用途が先にあり、フォントはそれを表現するためにふさわしいものを選ぶべき、ということです。
今までは色々な人が発する、「helveticaが」「新ゴが」「MSゴシックなんて」というような言葉を鵜呑みにしてきましたが、そんなもんじゃないんだなって、よくよく考えればごくごく当たり前の結論に達しました。
(まぁ、ウェブだとシステムフォントが大方採用されるから、フォントなんて、、、みたいに思っていたというのもありましたが。。。)


個人的にはフォントが作られて来た歴史的な背景や、その時代の制作者の思いやストーリーが結構に楽しめました。
そのフォントが出来てきた背景が分かれば、それを一つの基準に据える事ができるなぁということを考え、テンションがあがりました。都度都度色々、調べて行こうと思います。


そういえば全くもって蛇足的な話なのですが、
(別にすべてを検証しているわけではないですが)ここ数年前から講談社の文庫本に読み辛さを感じます。
読みやすいようにとフォントサイズを大きくしたのはまぁいいとして、周辺余白をきちんと取っていないので親指が文字にひっかかる、本文の文字が明朝体なのは良いとしてウエイト(太さ)が若干太くて、長く読むものとしては、目が疲れる・・・という気がします。
別の出版社で、新書を編集者がインデザインで作っているという話を聞きました。スピードとコストの問題なのでしょうが、同様の事が起こっているのかな。。。

もう少し可読性を挙げてほしいところです。

技術の発達は専門性を下げ、そしてそれは良い仕様書に基づけば、うまく作用すると思うのですが、逆も起こりうる、ということですよね。


文字講座
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誠文堂新光社
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おすすめ度の平均: 5.0
5 デザイナー必見!あのクリエイターのからの文字のお話。

【Book Review】『佐藤可士和の超整理術』『1冊まるごと佐藤可士和。』

ちょっと今更、という気もしますが、文化庁のメディア芸術祭を見に国立新美術館に行った際、メディアショップで佐藤可士和さんの本を2冊買いました。


アートディクレターの整理術って、という気もしつつも購入。
読んでみると、物理的な整理にももちろん言及はされてありますが、
本質的にはクライアントのRFP(requirement for proposal)を明確にするためのディレクションポリシーや(そこまで具体的な言及ではない気がしますが)手法について書かれてます。


やはり一線で活躍する人は、決して表面的ではない、本質的なビジョン・コンセプトを突き詰め(情報収集、仮説立て、検証)るのだなぁと感心。
仕事をしていると、担当窓口になるクライアントの満足に応えたら「事済む」こともあるのですが、やはりそれこそ実に表面的であり、クライアントと喧嘩してでも、本来のファンダメンタルなクライアントニーズを汲み取る事が大事なんだなぁと改めて感じました。

結局、本質的を押さえるから、結果につながり、結果が出るから、次につながる。

言われてみれば「当たり前」なのですが、日々の仕事をルーティンにしてしまう終業ではそれはとても見落としがちで、佐藤可士和さんは、実に本質的なディレクターなんだと、感嘆します。

仕事している人にとっては、新しい発見というより、見えているものを見落としていた自分に気が付ける本なのではないかと。

あと、実に理系的というか、システム的な発想部分も好きです。





「落語は人間の業の肯定である」

立川談春の『赤めだか』を読んだ。

近くの本屋で平積みされていたのに少し気になっていたところ、
時々、出稽古させていただいている上野先生(落語好き)に、
写真の世界を話いただいた際、「『赤めだか』という本があって、写真の世界もあれと同じだよ。」とお勧めいただいたこともあり、手に取った。

談春は、以前、一度聞いたことがあるんですが(以前のエントリー、立川談春の落語を聞いて来ました)、
『赤めだか』は、自叙伝というか、エッセーというか、な感じです。


カメラマンの仕事であるところの「撮影」も一種の「芸」と考えたときに、
とてもしっくり来ることが多い――。
「芸を盗めなんて言うが、あれはキャリアのできる人間でしかできない」
「初めは型をまねることから始めよ」
「型のできてないやつが芝居をすると型なしになる。型のできているやつがオリジナリティを出せば型破りになる」
「型を作るには稽古しかない」
「やるやつはやるなと言ってもやるし、やらないやつはやれと言ってもやらない」

…空手の型でも同じことを聞いたし、剣道でも「守破離」ってあるけど、
やはりどの世界でも「道」は長いってことだよね。


しかし、談春が、高校を辞めて親に勘当され、住み込みの新聞配達をしながら弟子になった際の、談志の言いようがなんとも面白い。
端的にまとめると「落語家として成功したら美談になる。よしんば失敗しても、いっぱいやっているときのグチのネタになる」というもの。決して、一所懸命やりなさいとは、言わず、人生は決して思い通りに行くわけではないが、どう転んでもそれほど悪いことばかりではないだろう、ということを言外に伝えているのだろう、とのこと。

そういえば、以前、カメラマンとしては面白い経歴だから、成功したら面白いぜ、と言われたことがある。確かに、面白いかもね(逆に「退路だろ」って言われもするけどさ)。
この世界でいうと亜流で生きている以上、使えるものは使わないとだし、やるなと言われてもやらないと生きていけないような気がする。

自分と照らし合わせてもよい具合に引き締めてくれる本だった。


「落語は人間の業の肯定である」(談志)。
僕も見たいな人間も肯定してくれるというのだから、落語をもっと聞いてみようかな。
最近読んだ中ではかなりヒットでした。


ちなみに志らくの落語をPodcastingで見つけたので初めて聞いてみた。。。
「落語に狂気を持ち込む」志らくも、面白かったけど、談春の方が好きだ。

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。③

高度情報化社会の流れの中で、総表現社会になりつつあるということについて、
前回大変うんうん頷いたわけですが、

その部分以外で、ブログに関して、共感したのが次の部分。

「ブログは個にとっての大いなる知的成長の場」であるという内容。(164ページ位)


ブログ書いておきながらこんなこと言うのははばかられますが、
僕のもともとのスタンスは「ブログなんて書く人の気が知れない」でした。苦笑

というのも、「石」の99パーセントにどうしても目が言ってしまい、
ルサンチマン(≒鬱憤?)の排泄であり、決して表現などではない!と思っていたからです。
(最近はもっとゆる~い捉え方になってますけどね。

そもそもネット内の情報なんて検索して精査してアクセスするわけだから、
基本1%の情報にピンポイントでアクセスできるので、石情報に自分が惑わされることもない。

さらに情報精査しないでアクセスするブログ情報は、
例えば友人のものだったりするわけだから、
それは逆に瑣末な情報から執筆者の人となりを想定させる効果があり、
「石」情報も必ずしも「石」ではなくなってしまう。


で、まぁ、色々とわけあってブログを書き始めて、
しかもできる限り日々更新すると(誰に誓うでもないけど)決心し、
毎日書いてみると当然ながら「ネタ切れ!!」するわけで、
それでも、些細なことでもひねり出しながら書いていると不思議なもの。

以前は適当に読み流していた本なんかでも、「何かしらのネタはない!?」と
兎視眈々と情報収集しようという風に思考が傾いていって、
アウトプットするために以前よりも貪欲にインプットするようになりました。

そういう体験もあったので、
「個の知的成長の場」
という表現はなかなかしっくり来ました。

この投稿するのにも、一度読みきった本(=『ウェブ進化論』)
を再び開いてる位ですからね。笑

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。②

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。②

この本の第4章の「ブログと総表現社会」でブログについて色々と書かれています。


ちなみに海外だとオピニヨン発信の場として使われるブログも、

日本だと日記的に使う人が大半を占めていて、それで当然のことながら

ブログ数やエントリーの数も多いけれども、玉石混交――。


しかし、以前であれば、プロフェッショナルである物書きにしか許されてなかった、

情報発信を皆が手軽にできるようになった。

その多くは「石」なわけだが、下手したら99%は「石」かもしれないが、
残りの1%の「玉」――それもネット以前の社会であれば、
そういう素質がありながら、
もしくは、自分の専門分野があり、執筆のために雑食のごとく分野勉強する俄か専門の職業ライターさんよりも
はるかに一家言ある方がネットを通じて情報発信できるわけです。

当然ながらそれは有益な情報であり、それが仮に1%あれば、
母体数がそもそも多いわけですから、大変な数の有益が情報が発信されることになります。

それは素晴らしいことですね。


・・・・・・
なんかこれって写真でも似たような感覚に陥ることがあるのですが、
それは例えば報道の写真です。

今や携帯カメラに(そこそこ)高性能なカメラがついて、日本人全カメラマン的な状態です。
現場にいち早く到達し、訴求力のある写真を撮影する、
プロの報道カメラマンの価値がもちろん損なわれるわけではありませんが、
本当の決定的な瞬間――それも世の中の所かしこで起こっている決定的な瞬間の場面に
決して数の多くないプロの報道カメラマンが、居合わせる可能性は決して高くありません。
(それが叶って決定的な瞬間を捉えると、ピュリッツァー賞を取ったりするわけですよね。
 …ちょっと語弊がありますけど、今回はご容赦を!)

それが日本人が全員「カメラマン」なら、決定的な出来事が起こったときに、
それが――たとえ稚拙でも――記録される可能性は極めて高くなります。
(報道は「きれい」よりも何よりも「写っていること」が重要ですから)。


これはブログで総表現社会になっている構造と同じことが写真の報道(...映像もそうかな?)についても言えるよなーと思った次第です。

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梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。

そうですよ。今更ですいませんね。

結論から言えば思ったよりも全然面白かった。


僕の知り合いの結構な人が持ってたし、
その人たちが結構にIT系の人たちだったなんてバイアスを差し引いても、
この本が結構なベストセラーだからなんですよね??


『ウェブ進化論』の読者としては、
僕は比較的にこの本を堪能できた部類の人間でしょう。


この中にはWEB2.0の話も割と出てくるのですが、
Googleを初めとするテクノロジー系の会社が提供する技術を享受して、
仕事をさせていただいているような立場の人間でもあるので(僕は)、
話題の大半を「他人事」ではなく「自分事」として捉えることができたということは大きいでしょう。


日常的なレベルの話で一例挙げるなら、
私は、会社のパソコン、家のパソコン、モバイルノートパソコンを
公私に渡って使っているのですが、
その際、いつも割りと困ってしまうのが、
例えば、作業しているファイルのバージョン管理や情報の集約先です。
ですので『ウェブ進化論』の言うところの「パソコンのあちら側」に、
ファイルやデータを集約させることで、ネットがつながる場所であれば、
どこからアクセスしても常に同様の環境で作業をすることができるので便利です。

もちろんネットが常に使えるわけでもないので、完璧に集約できているわけではないのですが、
情報収集においてのGoogeノート(最近使い初めました)やGmailは大変有益だな~としみじみ思います。

『冷血』(トルーマン・カポーティ)

トルーマン・カポーティの『冷血』を読み終わりました。


以前、カポーティという映画を見たのですが(以前のエントリー)、
その映画の中でフィリップシーモアホフマン演じるカポーティが
取材・執筆している作品が上記の、『冷血』でした。


1965年発表の作品です。
実際に起こった殺人事件を綿密に取材して、作品にしたというものです。

まず何よりも脱帽したのが、
文章一つ一つに膨大なデータの裏づけがあるだろうことが分かることです。


今でこそ、ノンフィクションジャンルは色々な作品がありますが、
(ちなみに沢木耕太郎の初期作品は大好きです)、
当時にしてみるとかなり真新しいものだったらしく、
以降、カポーティの縮小再生産のようなジャーナリズムが増えたそうですが…。


『冷血』を読んでみたらそれもなんとなく納得。
カポーティ本人がジャーナリズムというよりも、ノンフィクション・ノヴェルと本作品を位置づけているように、
ドキュメンタリーというよりもやはり「物語」です。


逆に、事実とその綿密な取材がベースであり、
最後のクライマックスと終焉を演出を「物語れる」からこそ
生み出せるリアリティ(≠真実)があるのでしょう。


そういった面において厳密には、ドキュメンタリーではないように思えますし、
それゆえ、カポーティに影響を受け、ドキュメンタリー作品に向かった記者が、
(綿密に取材するということは除いて)『冷血』に引きずられてしまえば、
陳腐なセンチメンタルに陥ってしまった作品が量産されてしまったことも不思議ではないかもしれません。

以後、死屍累々の作品を生み出す潮流となった一種の問題作は読む価値ありですよ。

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