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梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。②

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。②

この本の第4章の「ブログと総表現社会」でブログについて色々と書かれています。


ちなみに海外だとオピニヨン発信の場として使われるブログも、

日本だと日記的に使う人が大半を占めていて、それで当然のことながら

ブログ数やエントリーの数も多いけれども、玉石混交――。


しかし、以前であれば、プロフェッショナルである物書きにしか許されてなかった、

情報発信を皆が手軽にできるようになった。

その多くは「石」なわけだが、下手したら99%は「石」かもしれないが、
残りの1%の「玉」――それもネット以前の社会であれば、
そういう素質がありながら、
もしくは、自分の専門分野があり、執筆のために雑食のごとく分野勉強する俄か専門の職業ライターさんよりも
はるかに一家言ある方がネットを通じて情報発信できるわけです。

当然ながらそれは有益な情報であり、それが仮に1%あれば、
母体数がそもそも多いわけですから、大変な数の有益が情報が発信されることになります。

それは素晴らしいことですね。


・・・・・・
なんかこれって写真でも似たような感覚に陥ることがあるのですが、
それは例えば報道の写真です。

今や携帯カメラに(そこそこ)高性能なカメラがついて、日本人全カメラマン的な状態です。
現場にいち早く到達し、訴求力のある写真を撮影する、
プロの報道カメラマンの価値がもちろん損なわれるわけではありませんが、
本当の決定的な瞬間――それも世の中の所かしこで起こっている決定的な瞬間の場面に
決して数の多くないプロの報道カメラマンが、居合わせる可能性は決して高くありません。
(それが叶って決定的な瞬間を捉えると、ピュリッツァー賞を取ったりするわけですよね。
 …ちょっと語弊がありますけど、今回はご容赦を!)

それが日本人が全員「カメラマン」なら、決定的な出来事が起こったときに、
それが――たとえ稚拙でも――記録される可能性は極めて高くなります。
(報道は「きれい」よりも何よりも「写っていること」が重要ですから)。


これはブログで総表現社会になっている構造と同じことが写真の報道(...映像もそうかな?)についても言えるよなーと思った次第です。

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